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幕末の安政年間 南山一揆の真実に迫る(6/11)催行報告

幕末の安政年間 南山一揆の真実に迫る(6/11)
「期間限定」に関するレポート

令和4611()に「幕末の安政年間 南山一揆の真実に迫る」が催行されました。江戸末期、大老 井伊直弼によるの「安政の大獄」が行われている厳しい折、南山36か村の村々の人々(1,616人)は領主の圧政に対して果敢に立ち上がり、1人の犠牲者もなく要求を通すことができたとされます。この「南山一揆」の舞台を専門ガイドの案内で巡りました。

幕末、南山36ヶ村は、奥州白河藩(10万石)の領地で、高森町の市田に陣屋が置かれました。南山一揆では、「天領並みの金納」を求めてここ市田陣屋を目指しました。今は「市田陣屋跡」の看板しか残っていませんが、平面図を見ながら往時を偲びました。

一揆勢が飯田藩の役人に通行を阻止された飯田松川や一揆勢が市田陣屋代官・務川忠兵衛と対決した「八幡原」を眺め、一揆勢1,616人が天竜川を渡った船渡に到着しました。専門のガイドの方から周辺の天竜川を巡る話も併せてお聞きしました。

大願寺は南山36ヶ村の惣代達が頻繁に寄合を持った寺です。最初、佐倉惣五郎を祀る「南山祠」を見学しました。一揆の指導者は佐倉騒動について事前に研究して一揆を起こしたとされます。そしてご住職やガイドの方から貴重なお話を聞きました。

南山一揆の際にリーダーとし急遽担ぎ出され活躍した米川伴助。彼の故郷である千代米川にある千代公民館にて地元の方による美味しい手作り弁当をいただきました。

米川伴助は、向こうっ気の強さから米川村では少し浮き立った存在でしたが、南山一揆の際には、そのキャラクターを買われ、一揆の指導者・小木曽猪兵衛から急遽担ぎ上げられました。今回、米川の小高い場所にあるお墓をお参りしました。

米川村の庄屋を務めた川手家。今回、立派な蔵を開けていただき、伴助が獄中で書いた手紙など貴重な史料を拝見しました。南山一揆を物語る当時の貴重な史料を拝見し、皆さん興味深々な様子でした.

南山36ヶ村の一つである稲伏戸村。稲伏戸公会堂には、一揆の際に市田陣屋に各村役人、壱人百姓達が提出した貴重な嘆願書が表装されて掲示されています。署名の下には各自の黒印が押されていました。地元の方から南山一揆について貴重なお話も伺いました。

南山36ヶ村の一つである平島田村(現在の泰阜村平島田)。平島田村の庄屋の家に生まれた金田千鶴は「夭折のアララギ派歌人」として知られ、今回地元の方から優れた短歌を残しながら結核で短い生涯を閉じた金田千鶴について心を打たれるお話を伺いました。

南山36ヶ村の一つである金野村(現在の泰阜村金野)。江戸時代の金野村は「壱人百姓の村」と言われ、「親方」(壱人百姓)と、「親方」の家臣として隷属し、自分の農地を持たなかった「被官」のみで構成される村でした。つまり村の中に自分の農地を持つ「百姓」が「親方」の“壱人”しかいなかった村です。竜東にある南山36ヶ村はこうした「壱人百姓」の村が多く存在しました。今回、その一つ金野村にある戦国時代建設の金野諏訪社(本殿。国重要文化財)を地元の方の案内で見学しました。

南山一揆は、江戸時代に起きた百姓一揆としては、犠牲者を出さず要求を領主に認めさせることに成功した一揆として全国的にも知られています。今回、南山一揆に詳しい専門ガイドの方が同行し、バス中で大変興味深いお話を伺いました。また各地の一揆ゆかりの地では、地元の方の熱心な話をお聞きすることができ、南山一揆について理解を深められたのではないでしょうか?南山一揆について、さらに詳しく勉強したい気持ちになりました。今回は、多くの方にご参加いただき誠にありがとうございました。

Staff ゆっきー

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