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幕末の南信濃、信州飯田城と水戸天狗党の足跡を追う(9/13)催行報告

幕末の南信濃、信州飯田城と水戸天狗党の足跡を追う(9/13)
「期間限定」に関するレポート

令和2913()に 「幕末の南信濃、信州飯田城と水戸天狗党の足跡を追う」が催行されました。今回は満員御礼の15名の方にご参加いただきました。ありがとうございます。今回のツアーでは、水戸浪士の伊那谷通行に大変お詳しい山内尚巳先生(元長野県文化財保護指導委員、元文化財飯田市文化財審議委員)に同行いただき、水戸天狗党の伊那谷通行の史跡を巡りました。

幕末の元治元年(1864)、筑波山に挙兵した水戸浪士天狗党は、京都を目指し、上野国から信濃国に入り、和田峠の戦いで松本、諏訪両藩を打ち破りました。その後伊那路を進み、三州街道片桐宿と大島宿に分宿しましたが、首領の武田耕雲斎は、片桐宿の問屋(庄屋兼務)の大沢家に宿泊したとされ、今回大沢家のご厚意で長屋門と武田耕雲斎が宿泊したお部屋を見学しました。歴史的人物が宿泊したお部屋を大沢さんの解説付きで見学でき、皆さん感慨深い様子でした。大沢様、ありがとうございました。

片桐宿から三州街道を南下し、途中大島宿(松川IC下)を車窓から見学した後、高森町の市田(原町)陣屋跡を見学しました。市田(原町)陣屋は、幕末、奥州白河藩の伊那谷の飛び地(13800余石)を支配した陣屋で、水戸浪士の伊那谷通行の5年前、安政6年(1859)に起きた南山一揆の舞台としても有名です。水戸浪士の通行の際には、お互いに緊迫した状況だったようですが、特に衝突は起きなかったようです。

市田宿を通過した天狗党は、飯田市の今宮神社のある今宮原にて昼食(飯田町提供)をとりました。このことを記念した石碑が丸山公民館の前にあります。高さ5m弱の「尊王義士甲子祈念碑」や「水戸藩志士留跡」です。「尊王義士甲子祈念碑」は、右面の座光寺の北原稲雄、今村真幸(豊三郎)兄弟の間道案内についての記述、左面の水戸天狗党の亀山嘉治が飯田で詠んだ「八束穂のしげる飯田の畔にさへ君に仕ふるみちはありけり」の短歌、裏面にある亀山嘉治の経歴が記されています。

水戸天狗党は、座光寺の北原稲雄、今村豊三郎兄弟の働きにより間道を通行することになり、飯田藩は天狗党との衝突を回避することができました。本丸にある長姫神社は、「御三霊」を神として祀っています。御三霊とは、堀久太郎秀政、親良、親昌の三代ですが、初代の堀久太郎秀政は、織田信長の側近中の側近ともいわれ、安土城絵図によれば、堀久太郎屋敷が天守のごく近くあったことからもそれが伺われます。長姫神社拝観の後、本丸にある「観耕亭碑」(飯田市史跡)と呼ばれる石碑を見学しました。この石碑は、水戸天狗党が伊那谷を通行した時の飯田藩主(飯田堀家11代)であった堀親義(ちかのり)を顕彰したもので幕末の安政6年に建立されました。堀親義と学問を通じて親交のあった昌平坂学問所の教授、安積艮斎(あさかごんさい)の撰文になるもので、農民の耕作の様子を直接訪ねれば農民の耕作の妨げになるとして、飯田城内に「観耕亭」を設け、場内から農民の耕作の様子を眺めた藩主・親義の仁政をたたえています。水戸天狗党の通行の際には、清内路関所を通したことを幕府から咎められ、2,000石の減封処分となりますが、この幕府の措置に対する領民からの反対運動や、隠居地の木下家(飯田市松尾久井)で亡くなった時には、木下家から墓所の長久寺(大宮諏訪神社隣接)までの葬送の道筋には、多くの人々が見送りに出たことなど、領民から慕われた藩主であったことが伺われます。

飯田城跡から三州街道沿いに戻り、山本二ツ山集会所の近くにある三州街道と清内路街道の分岐点に立つ道標を確認しました。その後、水戸天狗党の通った三州街道とは別れ、水戸天狗党とも係わりのある松尾多勢子の生家である山本の竹村家を訪れました。竹村家では、ご当主が自らご案内いただき、竹村家と座光寺北原家、豊丘村伴野の松尾家の関係、また松尾多勢子の京都への旅立ち、また竹村家や周辺の残る多勢子の歌碑などについて貴重なお話を伺いました。

水戸天狗党が宿泊した駒場宿(阿智村)を散策する前に、旧宿場町にある「きたせんと」にてお肉とお魚の手作り料理をいただきました。元は銭湯だった場所に北原さんが始めたことから「きたせんと」と名付けたそうです。

駒場宿には、水戸天狗党が分宿し、現金屋(折山さん)には、水戸浪士の亀山嘉治が泊まり、短冊や扇に書かれた短歌など貴重な品々を残しました。ガイドの林さんの案内で、昔懐かしい銭湯「玉の湯」や昔の面影を残す街道を散策しました。

水戸天狗党は、駒場宿に宿泊した後、三州街道沿いに浪合関所を目指す予定でしたが、予定を変更し、いったん山本に戻り、青木から梨野峠越えの清内路街道を選びました。清内路関所を守っていた飯田藩は、関所の番人に「通せ」との命令を下しながら、水戸天狗党の通過後、幕府から関所の通行を許したことを咎めれらると、その責任を関所の番頭に負わせ、斎藤長左衛門、会田肇の二人は死罪という悲劇に見舞われました。藩主堀家の縁戚にあたる斎藤長左衛門は、この処罰に従わず、いったんは高野山にまで逃れたようですが、捕縛され飯田にて処刑されたそうです。斎藤長左衛門をはじめ、斎藤家の墓は飯田市の長久寺にありましたが、魂を抜いた上で、篤志家の手で飯田市の三日市場に移されたそうです。

清内路関所を通過した水戸天狗党は、上清内路の宿に分宿しました。武田耕雲斎は、本陣の床が高いので床下から敵に狙われるのを嫌って、脇本陣の原善兵衛宅に泊まりました。今回、ご当主の原さんのご厚意で、国登録有形文化財に最近登録された屋敷内を見学させていただきました。江戸時代以来の貴重な建物、武田耕雲斎が泊まった部屋など貴重な文化財を拝見し、参加の皆さんは是非この貴重な文化財を後世に残すようにお願いしたいとの声が上がっていました。武田耕雲斎が残した長い文書の写しも拝見しました。

ツアーの最後は、上清内路の豆腐店「長田屋」さんにて「寄せ豆腐、木綿豆腐、油あげ」の3点セットのプレゼントがあり、皆さんとても喜んでいました。

※今回、水戸天狗党の伊那谷通過という、幕末、この地域にとって大きなインパクトを与えた歴史的事件にスポットを当てたツアーを行いました。多くの皆さんにご参加いただきましたが、皆さん熱心にガイドの山内先生の話に耳を傾けていました。今後もこうした地域の歴史や文化を再発見するツアーを行って参りますので、是非ご参加ください。

by ゆっきー

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