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知られざる伊那谷の南北朝史を辿る(11/14)催行報告

知られざる伊那谷の南北朝史を辿る(11/14)
「期間限定」に関するレポート

令和31114()に、南信州ふるさと再発見の旅「 知られざる伊那谷の南北朝史を辿る」が催行されました。伊那谷の南北朝史といえば、大鹿村の大河原に潜伏した宗良親王がまず真っ先に名前が挙がりますが、今回のツアーでは、大河原の宗良親王史跡をはじめ、分杭峠を越えて伊那市長谷に残る宗良親王の足跡を辿りました。また、鎌倉幕府執権北条氏(最後の得宗)の北条高時の遺児・北条時行が中先代の乱の際に信濃に潜伏した史跡も辿りました。

県道小渋線を大鹿村大河原に行く途中に「桶谷トンネル」があります。この「桶屋」の地に北条時行の隠れ家伝説が残っています。昔は「北条姓」の方が5軒ほどあったそうです。

上蔵(わぞ)にある福徳寺本堂(重文)を大鹿村教育委員会の方の案内で見学しました。建築年代を巡って興味深いお話をお聞きしました。当初は平安末期建築とも言われましたが、年輪年代法の調査で鎌倉中~末にかけて伐採された木材が使用されていることが分かり、鎌倉末に建てられたと考えられるとのことです。

宗良親王を祀る神社で、拝殿前には宗良親王の歌碑があります。教育委員会の方から宗良親王の生涯についてお聞きしました。和歌の大家である二条家の母を持ち、和歌に大変優れていた宗良親王にとって、父・後醍醐天皇の命で長年戦争に明け暮れる生涯はいかがであったかなど、その生涯に想いを馳せました。

昼食後、分杭峠を越えて伊那市長谷に向かいました。常福寺ではご住職から宗良親王に関するお話をいただきました。明治時代に寺の裏山にあたる「御山」近くから宗良親王の墓が発見された話、また昭和初期に本堂の修理中、屋根裏から宗良親王の木造が落下し、その胎内から観音様と宗良親王が北朝方に襲わて亡くなり、「御山」に葬られた古文書が発見されたことなど、とても興味深いお話をお聞きしました。

常福寺でご住職から貴重なお話をお聞きした後、地元溝口の方で「溝口郷づくり会」の方の案内で「御山」と「大徳王寺城跡」を訪ねました。「御山」の石段を登ると宗良親王の墓があり、前面に「尊澄法親王」、裏面に「尹良」と刻まれているそうですが、かすかに文字が見えました。隣接する「大徳王寺城跡」は、最近立派な説明看板が建てられました。南朝方として「大徳王寺城」で挙兵し、北朝方の小笠原勢と戦って敗れた北条時行についてお話をお聞きしました。

三峰沿いにある「溝口露頭」は中央構造線の露頭で、断層面が大変良くわかります。断層の割れ目にマグマが貫入したとのことで、それも良くわかります。

行程の最後に秋の高遠城跡を訪ねました。「高遠ふきのとうの会」の方の案内で、最初高遠藩の藩校「進徳館」を訪ね、その後城跡を巡りました。紅葉がとてもきれいで、高遠桜のにぎやかな時期とは違う新しい魅力を発見しました。

今回は、伊那谷の南北朝史を辿るということで、飯田下伊那から伊那市長谷まで足を延ばして宗良親王と北条時行の足跡を辿りました。宗良親王ついては、比較的大鹿村などの史跡が知られていますが、伊那市の長谷に宗良親王終焉の地に関する史跡があることは余り知られていないかと思います。今回のツアーでは、そうした長谷の史跡を訪れ、また「北条時行」という余り知られてはいないものの、その存在は日本史のある意味ターニングポイントになった人物で、伊那谷に残るその足跡を訪ねることは新鮮な内容になったのではかいかと思います。

しかし、まだまだ南北朝時代は多く謎に包まれており、今後もそうした謎に迫るツアーを企画していきたいと思います。

今回は、多くの方にご参加いただき大変ありがとうございました。

Staff ゆっきー

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